Grandpa's Diary「アメリカ18日間の思い出」17 1979年11月1日

 17日目  11月1日(木)
 いよいよ最後の1日。朝食はホテルで。食事のなかでの最後のミーティング。
 各チーフが一言づつの視察の感想。相変らず私が一番手。私の一言「「視察団」としてアメリカへ来てよかった」
 これが私の一言だった。
 橋本さんは62才だが元気がある。昨日は一日中ハワイでのゴルフを楽しんだ。
 5時近くの飛行機だが1時にホテルを出発。空港に向う。ハワイの一日半の休養は精神的には本当に休養になったが、何んともどこか物足りなかった。
 あまりにも日本的だったからかも知れない。
 ホテルの内、かなりが国際興業の所有だそうだ。
 山の緑。木々の緑も日本的すぎる。熱海を大きくしたような感じ。それがハワイの印象だった。
 空港は日本人ばかり。緊張感が全然ない。
 飛行機は30分程遅れてホノルル空港を飛びたった。
 長かったような18日間も今になると一瞬のうちに終ってしまった。8時間近いジャルパックの飛行。
 やはり日本のスチーワーデスは素晴らしい。
 時差が19時間もあるという。日本時間の2日午后6時すぎ成田空港着。妻と良子の家族が出迎え。
 会社からは社長、山田、福田の3人が出迎えてくれた。

1979年11月14日稿をおく。




Grandpa's Diary「アメリカ18日間の思い出」16 1979年10月31日

  16日目  10月31日(水) ホノルル 休養

 9時。日本人の食堂へ。朝からビールを飲む。
 10時。バスで市内見学。
 あまり冴えない。バスの中でうつらうつらしていた。
 風の強い山の頂上へ行ったが、バスから降りなかった。
 第424部隊(二世部隊)の陸軍基地から眞珠湾へ。
 米戦軍アリゾナのしづむ眞珠湾にもあまり感慨がわかなかったのは何故だろうか。
 30年の歳月の恐ろしさを知った。
 午后は自由行動。街を散歩する。ワイキキの浜辺は美しい。現地人の店でも日本語だ。
 夜は全体会食でハワイのフラダンスを見る。
 さすがに本場のハワイアンだ。眠くて仕方なく早めに引き上げる。帰りはコールガールで街が一杯だ。

Grandpa's Diary「アメリカ18日間の思い出」15 1979年10月30日

 15日目  10月30日(火)
     日程
     □□□□ショー見学
     午后ホノルルへ

 起床。7時視察日程も今日1日。
 もう少しアメリカに居たいような気がするのは何故だろうか。大事なことを聞き忘れているような気がして仕方がない。
 □□□□ショーは盛大だった。直接、私には関係のないものが多かった。
 午后4時。ロスアンゼルス経由ホノルルへ飛ぶ。
 ロスまで2時間。7時40分ロス発ホノルルへ。
 こゝでトラブル。小堀、岡木両団員の鞄が行方不明。
 ロスの夜景も美しかったが、シカゴにはとてもかなわない。ホノルルまでの飛行時間は時差を別にして3時間位らしい。
 レポートの残りを全部整理してから寝ることにする。
 10時すぎ目をさます。間もなくホノルルらしい。
 10時35分。下降を始めた。10後、海岸線に明りが見え出した。海岸線がよく分る。
 海上の漁船の灯も見えるようになった。
 11時。空港着。眞夜中の空港だが観光客でゴッタ返し。空港内がものすごくきたない。
 市の清掃員がストライキとのこと。
 みんな日本語だ。思ったより暑くない。
 12時過ぎにホテル到着。明日は休養日。起床も8時30分だ。ホテルの前のソバ屋でソバを食う。100円也。

Grandpa's Diary「アメリカ18日間の思い出」14 1979年10月29日

 14日目  10月29日(月)   シカゴ
          日程
          午前 オートエレクトリック社
          午后 オプション

 昨夜は2時過ぎまで起きていたが、今朝は時間前の6時には起きた。チャイムの前に起きたのは初めてのこと。
 今朝は日本晴れ。日本より暖かいのではないだろうか。
 午后。バスでの市内見学は殆んど寝てしまって何も見なかった。日本的な垣根のある家が何軒かあった。日本的な街のような気がした。
 ミシガン湖の美しさと公園が多いこと。ジョッキングで体をきたえる若者の姿だけが印象に残った。
 バスのガイドから次のような話を聞いた。
 ⑴学歴がないと偉くなれないので夜間大学へ通っている者が多い。このために金曜日以外は酒を飲むこともない。
 ⑵アパートの家賃は日本円で6万〜8万円
  ミシガン湖に面した所は12万〜16万円
 ⑶シカゴの人はよく家へ客を招待するらしい。
  そのためにいつも家をきれいにし、家具などを新調するとのこと。
 ⑷全般的に物価が高い。

Grandpa's Diary「アメリカ18日間の思い出」13 1979年10月28日

  13日目 10月28日(日)  ニューヨーク
             日程
              午前 検討会
              午后 休 養
                 6時飛行機でシカゴへ

 起床。7時30分。午前中検討会。
 午后自由行動。国連事務局へ。記念メダルを買うため
 タクシーで。帰りにメッシーデパートに寄る。
 日曜日のニューヨークの商店は殆んど休み。わづかにデパートがいくつか営業しているだけだ。
 一階売場でハンドバッグ2ヶ買う。品定めが出来ず苦労した。
 黒人女性の店員の所で4ドル50セントの小物4ヶを買ったところ60ドルを請求されたのには驚いた。
 近くにレジがあったがレジも使えないらしい。
 2回計算をし直したがやはり60ドルという。
 最後に近くに居た黒人店員を頼んで計算をしてもらった。白人の店員を頼まないところに何かを感づると共に
 あまりにも頭の弱いのに驚いた。
 4時。ニューヨーク空港へ。6時飛行機に乗りシカゴへ。
 1時間半程でシカゴ空港着。
 シカゴの夜景もすばらしかった。
 ホテルでの食事後、ウィスキーを買いに二人で酒屋へ。
 最高に治安の悪い街とのことなので無気味だった。
 ホテルから500米程の所に酒屋があった。
 酒もタバコも自由販売で値段がいろいろである。
 この店ではジョニ赤7ドル。カティサーク6$だった。
 日本の1/2程度の値段だ。

Grandpa's Diary「アメリカ18日間の思い出」12 1979年10月27日

  12日目  10月27日(土)  ニューヨーク
日程   市内見学

 昨夜は11時30分ホテルに帰る。昼が眠いことは分っていながら夜が遅くなる。日報などをまとめたら1時。
 家へ電話をする。未央(孫)と話す。
 7時30分。起床。9時30分バスで市内見学に出発。
 今朝は寒い。日本の眞冬ぐらい。いまにも雪が降りそうな曇り空のため特に寒さを感じる。
 リンカーンセンター(音樂堂)に行く。あまり興味がないのと寒いのとですぐバスに帰る。
 外人の団体が何組もいたが持っているカメラは殆んど日本製のものだ。土曜日のせいか街を歩く人は少ない。
 高層建築ばかり目立つが歴史の重みが感じられない。
 聖ヨハネス教会を見る。
 やはり教会だけは別だ。しかしモントリオールの教会には全然かなわない。
 黒人スラム街を通る。1/4は失業者だとのこと。
 恥がないのではなく、仕事をする気がないのだ。
 まさに戦後の街を思い出させるようにビルのガラスもこわれたものが多い。しかしそうした家の前にも高級車がおいてあった。
 寫眞をとることも禁止された。
 ヨイドレ街を通る。昼ひなか、しかもこんな寒空に酔いつぶれが歩道に寝ころんでいる。道路はきたないしい紙くずで一杯だ。掃除などした形跡もない。
 映画街は街全体がいかがわしい映画館ばかり。ピンクレディーのミィーとケイの大きな立看板があった。
 「自由の女神」の所でバスから降りる。観光客で一杯。
 寒いので早々にバスへ。国連事務局へ。一階は完全に観光地だ。みんな国連切手などを買う。最後にデパートなどの立ち並ぶ5番街を通った。こゝだけは治安がよくて安心出来るらしい。途中、「宮崎」という日本人の土産物屋へ寄る。バスはこゝで解散。
 目の色をかえて土産物さがし。時計。サイフ。キィホルダーなど大体買いこんだ。
 橋本さんと一緒に帰る予定にしていたが、私と石井さんの二人だけが最後に残ってしまった。
 橋本さんの姿が見えなかったので諦めて2人で帰る。
 途中でタクシーをひろう。
 ホテルにはまだ橋本(千代田之□)さんは帰っていなかった。間もなく橋本さん帰る。我々の帰るときトイレにいたらしい。1人ぼっちの橋本さんは西も東も分らず、しかもうす暗くなった治安の悪い街をかけ足で帰ってきたという。一人でかけている彼の気持が手にとるように分った。
 申し訳のない事をしたと思う。
 ニューヨークの交通網は車と地下鉄だけ。電線はすべて地下。道路の下に暖房設備があって冬でも道路が凍らないとのこと。さすがにアメリカだと思う。
 しかし街のきたなさにも驚いた。繁華街も紙くずだらけ。エンパイヤービルで5分休憩があっても誰もバスから降りる人のいない程だった。歴史の重みがないから感激がないのだろうか。とにかく、ビルと紙くずの街。
 それがニューヨークの印象だった。
 5時。すし八で寿司を食う。マグロが美味かった。街をぶらぶらしたが何も買わず。
 子供に頼まれた「グッチー」の店を発見したのが6時5分過ぎ。6時閉店なので買うことが出来ない。
 アメリカの店は徹底している。閉店時間をすぎれば絶対に売ってくれない。日本とは全たく違う。
 雨が降ってきたが傘をさす人が一人もいない。傘はささないのだとのこと。雨の降り方が違うのかも知れない。

Grandpa's Diary「アメリカ18日間の思い出」11 1979年10月26日

  11日目  10月26日(金) フィラデルフィア
            日程
              午前 セーフガードオートモーティブ社
              午后 S.O.A

 昨夜、宿でハプニングが起きた。
 風呂の栓を開いたまゝ三人(橋本 石井 小花)で話し込んでいたところ風呂から部屋へ大洪水。あわてて栓をしめたが部屋の「じゅうたん」は水びたしになってしまった。
 話によると、莫大な損害賠償をとられるという。
 処置なしだが暖房を最高にして寝る。
 今朝も床は乾かなかった。旅行社の清水さんに相談したが回答なし。団長のはからいで無事解決でほっとする。
 朝方。一番に宿のメイド(黒人女性)が来た時はどうしてよいか分からなかった。
 とっさに日本の50円硬貨を出して、ゴマスリをする。
結果的には彼女は部屋の掃除に来たらしいが床の濡れているのには気がついたのかどうか、何も言わずに出て行った。あたかも「私の仕事は掃除だけだ」といわんばかりに。
 SOA社への途中で「自由の鐘」の本物を見る。
 日本語のテープで解説されたのには驚いた。
 さすがに独立後の首都だけあって古い建物と独立戦争の英雄たちの銅像が多い。
 アメリカ国旗がヤケに目につく。
 3時30分。フィラデルフィア発、バスでニューヨークへ。
 6時30分。ニューヨーク着。
 金曜日だったので郊外から食事に出かける車ものすごい「ラッシュ」。初めてアメリカにも「渋滞」のあることを知った。金曜日に奥さんを食事に連れて行かない事は離婚の理由になるというのだから大変だ。
 8時から全体会食。日本食堂へ。明日が土曜日のためみんなリラックス。私も歌わされる。
 食事後10人程で映画を見る。客席は1/3程度の入りだったが黒人が多いので気味が悪い。
 この人達は客かどうか分からない。入場料5$。
 入り口の立看板に×の字の多い程面白いのだそうだ。
 ここは×が3つだった。

Grandpa's Diary「アメリカ18日間の思い出」⑩ 1979年10月25日

  10日目  10月25日(木) ヤングスタウン
日程
午前 フイワシヤーボディー工場 
午后 パッカードエレクトリック 

 今日は初めてアメリカ大資本の工場を見せつけられた。
 工場見学に一日をついやす。午后6時40分。フリーブランド空港発。1時間でフィラデルヒヤへ。
 9時。ホテルに入る。
 空港には黒人が多く無気味だった。食事のあとホテルから一寸街へ出たが街の角々に黒人がつゝ立っていて何んとも気味が悪く50米程で引っ返してしまった。
 ホテルで小少さな「自由の鐘」を買う。

Grandpa's Diary「アメリカ18日間の思い出」⑨ 1979年10月24日

  道路ぞいに全米の車の生産台数を示す大きな表示板が立っていた。自動車の走行粁のメーターのように刻々と生産台数が更新されていく。716万台を示していた。
 さすがに車の街デトロイトだと思う。
 昨夜から九分冷えてきた。はじめてチョッキを着る。
 午后5時15分。プロペラ機で40分。ヤングスタウンへ飛ぶ。当分、強行軍が続く予定。

Grandpa's Diary「アメリカ18日間の思い出」⑧ 1979年10月23日

  8日目  10月23日(火)
  起床。7時。午前。午后。2社見学。
 3時。クリーブランドのヤングスタウンに移動。
 プロペラ機で約30分。空港に向うバスからデトロイトの街を見る。歩いているのは黒人だけ。商店などは殆んど店じまいで空家。アパート風のビルのガラスは破れ放題。
 人の住んでいる気配はほとんどない。
 スタンドも閉店。到底人の住む町ではなかった。
 ここの人口は、250万人。そのうち黒人が100万人はいるだろうとのこと。白人はみんな郊外へ逃げ出してしまったのだ。
 午前中に見学した工場の窓は「金網」でがっちり防備されていた。恐ろしい街である。したがって工場はほとんど20粁〜30粁はなれた郊外にある。
 カナダの街がなつかしい。

                   今日の日程

                    午前 スナイダー社
                    午后 ウイローラン組立工場
                    夕方 飛行機でクリーブランドへ

Grandpa's Diary「アメリカ18日間の思い出」⑦ 1979年10月22日

  7日目  10月22日(月)
  朝5時。起床。6時ホテル出発。飛行機で約1時間トロント市へ向う。機中での朝食。1時間の飛行といっても離陸、着陸にかなりの時間をとられるので、食事をするのに忙しい。
 午前中アーレンインダストリーズ社見学。昼食をご馳走になる。ものすごいボリュームのビフテキだった。
 厚さ3、4糎。大きな草履ぐらいはあるだろう。
 全部はとても食べきれないが肉は実にうまかった。
 夕方の飛行機でデトロイトへ向かう予定であるが若干時間があるので1時間程トロントの街を見学する。
 こゝもやはり落ちついた風格のある街だ。
 街角には銅像がいくつもある。エリザベス1世の銅像もあった。世界で一番高い塔もあった。その上に回轉するレストランがあった。
 英国領時代の格式高い建物が点在する中に数10階の近代的ビルがよく調和している。
 せめて1日をかけてゆっくり見学をしたい街だ。
 5時。トロント空港から再び飛行機でデトロイトへ。
 機中、約40分。うすくらくなった頃、問題のデトロイトへ到着。再びアメリカ領だ。
 黒人の多いのが目につく。
 治安の悪い街と聞かされているので緊張する。
 団員のうち2人のカバンが着いていなかったのでバスの出発が遅れる。街はづれのホテルに向かった時は眞暗になった。街も暗くて何んとなく無気味だ。
 心なしかホテルも安宿な感じがした。黒人の従業員が多い。夜は自由食。宿のレストランへ行ったがチンプンカンプンで注文が出来ない。
 なんとか注文をしたがうまくいかなかった。
 ワイン1杯。ビフテキ。ポテトフライ。スープ。で15$。日本円にして3,300円程。
強行軍だったので疲れた。デトロイトで

今日の日程
モントリオール→や飛行機でトロントへ
アーレンインダストリーズ社見学
午后トロント市内見学1時間
夕方、飛行機でデトロイトへ

Grandpa's Diary「アメリカ18日間の思い出」⑥ 1979年10月21日

  6日目  10月21日(日)
  2,3日前に雪が降ったというモントリオールの町は少し寒かった。今日は日曜日なので休養。  1日中市内観光の予定だ。9時バスに乗る。
 最初にモントリオール寺院を見る。教会のなかをのぞいたことのない私には全たくの驚きであった。
 何百何千とも知れないローソクの光が金箔の十字架をくっきりと映し出し、四方の壁画にはえて、どんな悪人でも敬虔な気持ちにさせる程のあやしい迫力を感じさせた。
 100人程の信者が牧師に合わせて賛美歌を歌っていたが、その中に若い人の姿はあまり見られなかった。
 宗教に対する考え方は日本もアメリカも同じようなのかも知れない。
 見学を終ってバスに集ったところでハプニングが起こった。私の班の一人(石井)がバスに乗っていないことがわかった。ホテルを出るときに人員点呼をとらなかったので欠員がわからなかったが、最初から乗っていなかったのだ。早速、ホテルへ電話をしたがホテルにいないとのこと。しかしいずれホテルへ帰るだろうとの判断で一まずバスはホテルへ引返すことになった。
 この途中で再びハプニングが起きた。ホテルを目の前にした信号を右折しようとした我々のバスが内側にいたライトバンと接触事故を起こしてしまった。
 両方の車ともかなりひどい。
 パトロールを読んでの話し合いが始まったが現場検証などはなく両者の話を聞く程度だ。
 しかし時間はかかる。約1時間はかかったろうか。その間にホテルとの連絡をとったが彼はタクシーで我々の廻りそうな見学先を追いかけたらしい。
 若干、英語がしゃべれるのと海外の経験があるのでこうした事が出来るのだろうが私の場合だったらションボリとホテルに居るしか方法がなかっただろう。
 仕方なく後の手配をよく頼んで再びバスで出発。
 オリンピック会場。山の上公園。大学。教会。の順に廻る。「楓」の紅葉が美しい。車の数も比較的少ない。家並みも赤煉瓦の二階建てが多い。東京の「山の手」のような静かさと気品を感じた。最後に見た山の上のジョセフ協会は完全に観光化されていた。
観光客でゴッタ返している。教会のなかにはエスカレーターが走っている。山の上からは静かな町々が見渡せすぐ眞下にはモントリオール大学の落ちついた校舎があった。この町は日本の京都のような落ちついた町であった。
 最近フランスの力が強くなり学校では英語ではなくフランス語を教えている。
 静かな町並みと教会の雰囲気のせいか今日は気持ちがさっぱりとした。つくづく「日本にばかりいないで時には海外も見なければいけない」と思う。
 夜は自由食。日本の店「さくら」で夕食。客は何人もいなかった。さしみ定食を頼んだが、さしみとは名ばかり。しかし、しばらくぶりで「日本」を味わった。
 日本酒3本を飲む。
 ホテルへ帰ってから、初めて会社と家え電話をした。
 11時、床に入る。

今日の日程        
モントリオール市内見学

Grandpa's Diary「アメリカ18日間の思い出」⑤ 1979年10月20日

  5日目  10月20日(土)
  朝食はホテル14階の食堂。アメリカ滝とカナダ滝の双方が見える。紅葉にはえる滝の水しぶきが目にしみついた。みんなシャッターを切る。
 9時45分ナイアガラ見物に出かける。さすがに観光地のこと、バスの案内人は日本人だった。東京に勤めた事があるというので懐かしかった
 黒い雨ガッパを着て滝ツボまでの観光船での滝見物。
 水しぶきで目をあいていられない。
 ただ壮観としか言いようがない。しかし連日の寝不足のせいか、何んとなく冴えない。
 景色の美しさは最高だろうがあまりにも観光地化されて落ち着きがなかった。
 12時。「北極」とかいう日本人店で第1回目のショッピング。カナダなので皮製品の店だ。
 みんな思い思いのショッピングを楽しんだ。
 インデアン風の子供のチヨッキ2枚、サイフ3個。カナダ石とかいう首輪2個を買う。またたく間に200ドルがとんでしまった。
 2時30分バスでトロント空港に向う。1時間以上かかってトロント空港着。4時15分、次の見学先モントリオへ向って飛行機に。9時近く夜のモントリオール空港着。
 さすがにモントリオールだ。空からの夜景が実に見事だった。夕食は全員会食。この町は治安がよいとのこと。
 大半が食事后(中華料理)ショーを見に出かけた。
 食事中にも眠くて仕方がなかったので3人ほどでホテルに帰える。


今日の日程        
ナイアガラ見物後     
空路モントリオールへ 

モントリオール公園の楓            
       (実物は燃えるような紅色だった)

Grandpa's Diary「アメリカ18日間の思い出」④ 1979年10月19日

  4日目  10月19日(金)
  9時ホテル発。ステ?????アDirオブCMC社見学。12時25分カナダのナイアガラに向かってバスで出発。全道程800K。東京から広島までの距離といはれて驚いた。本来は飛行機で飛ぶはずだったのが何かの手違いでバスになってしまったのだ。
 運転手は6時間はかからないという。
しかし広い道路のバス旅行も楽しい。明日は土曜日で工場見学がないのでホッとしたのか歌など歌いながらの旅になった。多分、幹事がみんなの緊張をほぐそうとしているのだろう。カナダ領近くの農家は広い。1000坪以上はあるのだろうか。全部芝が生え込まれている。
 サラリーマンの家はこゝでも20坪程度。庭も30坪位だ。土地付きで1500万円位らしい。相変わらず眞白い家が多い。途中マクドナルドというドライブインによる。ウイスキーの飲みすぎか食欲がない。
 車の中から軽食を冗える設備があった。売場の手前30米の所に自動注文機(やり方は分らなかった)があってそこで注文をして売場まで進むとすぐに注文したものが用意されている。明日が休日(土曜)のせいか車の列が延々とならんで待っていた。こうして待つことを何んとも思はないのもアメリカ気質とのこと。
 カナダ国境でパスポートの検査があったが問題はなかった。ゲートをへだててカナダ国旗とアメリカ国旗が立っている風景は我々には考えられない。
総体的にカナダの家はアメリカより立派だ。
 冬の寒さが酷しいので煉瓦造りの家が多い。2階建ての家も目立って見られるようになった。
 9時30分ナイヤガラについた。
 やはり6時間は無理だった。結局9時間かゝってしまった。
 ホテルの屋上から見るナイヤガラの夜景は壮観そのものだった。町のネオンも色とりどりで美しい。
 さすがに世界の観光地だ。明日の観光が楽しみだ。


今日の日程          
サギナウ市        
ステ?????アDirオブCMC社見学後
バス9時間ナイアガラへ

Grandpa's Diary「アメリカ18日間の思い出」③ 1979年10月18日

  3日目 10月18日(木)
  7時起床。8時30分ホテル発バス1時間程で第1回の工場見学先のパラゴンダイ社(金型工場)へつく。
 バスから見るこの町の家々はあまり大きな家はないが広い庭の芝生の緑と家の白さが対照的で美しい。
 工場見学後、バスで約3時間(250K)次の目的地サギナウに向かう。道路が実に広い。立体交差のため信号機は全たくない。電柱がすべて木のものだったのが家並みの景色によく似合う。4時30分ホテル到着。団員とも顔見知りになったせいか孤独感がなくなった。
 夕食後1部会のミーティング加納通訳を呼んでアメリカのことについて1時過ぎまでディスカッションをする。
 このホテルも4階建ての小じんまりしたホテルで隣りの部屋も殆ど我々の仲間だったので安心感があった。
 1時過ぎに風呂に入る。アメリカの浅い風呂は全たく困る。シャワーだから疲れがとれない。
はじめて靴下2足洗濯した。少し落ち付いてきたのだろうか。
今日の日程          
グランドピッツ市      
パラゴンダイ社見学後   
バス(3時間)サギナウ市へ

Grandpa's Diary「アメリカ18日間の思い出」② 1979年10月17日

 2日目 10月17日(水)
 6時45分、ホテルそなえつけの目覚し時計で起きれる。ホテルで起床時間をセットしてくれるので大分助かる。7時頃のアメリカはまだ眞暗だ。
 しかし外の道路は通勤の車がライトをつけてつつ走っている。7時30分朝食。この45分は本当に忙しい。
 食堂には外人客が半分以上いた。目玉焼きにトーストとコーヒーの定食なので注文する必要がないので安心だ。昨夜はアメリカの第1目だったせいかほとんど寝むられなかったので眠くて仕方がない。
 10時サンフランシスコ空港からシカゴ経由グランドビッツへ向かう。グランドビッツ着午后の6時。途中シカゴ空港で飛行機を乗りかえたが1日中飛行機に乗りっぱなしだ。大陸を横断したとはいえ、さすがにアメリカは広いとつくづく感心する。上空から見下す山山は殆ど木が生えてなく西部劇に出る山そのものだった。
 飛行中に老人夫婦がトイレに行く光景が目にやきついた。妻の手を引きながらトイレに案内し妻の用たしが終るまで外で待っていた。さすがに女性を大切にする国だとつくづく感心する。
 アメリカでの第2番目の勉強だった。
 9時夕食。夕食後11時30分までミーティング12時就寝。この町は人口10万程の小さな淋しい町だった。
 ホテルも4階建てのささやかな建物だった。

今日の日程
サンフランシスコ発空路   
シカゴ経由グランドビッツ

Grandpa's Diary「アメリカ18日間の思い出」① 1979年10月16日

「アメリカ18日間の思い出」

自 昭和54年10月16日
至      11月 2日


付記
 これは、あくまでも プライベイトの旅行記である。
 旅行中のメモをたよりに書いて見たが大分、書きもれがあるようだ。あわただしい旅のため記憶が混乱している。アメリカの国柄などの参考になれば幸です。
(誤字脱字はお許し下さい)




アメリカの18日間
1979.10.16~11.2
1分科会  
  1日目 10月16日(火)
  午后4時25分発の日航機に乗る。出発前の団員の顔は誰れも緊張しきっていた。私も飛行機に乗ること自身が2回目である。勿論海外へ出かけることなど、初めてである。見送りには妻と長女夫妻、次女夫妻が来てくれた。皆の顔も心配そうで落ちつかない。
 東京インターの専用バスに乗ったところで覚悟が決まった。翌日8時45分サンフランシスコ空港着時差の関係でその日も10月16日である。飛行中に現在、東方に向けて風速300粁の風が吹いていて、その気流に乗っているので予定よりかなり早く到着する筈ですというアナウンスがあった。 そんな関係から約一時間早く到着してしまった。風速300粁など我々の常識ではとても考えられない。したがって実際の飛行時間は8時間ぐらい。
 多分、2時間か3時間は寝たのだろうか。思ったより早く到着したような気がした。
 9時40分、バスでサンフランシスコ市内見学。
金門橋などを見学。昼食はレストランサベラーズでのカニ料理だった。初めてのアメリカの土地での緊張のせいだろうか、食欲全くなし。日本からの新婚旅行のツアーが2組ほど同じように緊張した顔で食事をしていたのが印象的だった。
 食事中もさかんに頭が回転している。アメリカの風土、アメリカ人気質などを見つだそうと一生懸命なのだろう。
 出発前に、むさぼるように読んだ数冊の本による予備知識が正しいかどうか。私も案外せっかちだと思う。
食事中にこんなことを発見した。
 お客の帰った後のテーブルの上がほんの数分間かたづけられないままになっていたところ、多分マネジャーと思われる男が大声をあげて店のメイドを呼びつけすぐに片づけるように命じていた。店全体に対するマネジャーの気のくばりようと店員に対する適切な指示と命令。
 日本人的なあまさと違って時間中の仕事の密度の濃さの一面をみせつけられたような気がした。
「トップ層の仕事に対する積極性は日本人以上である」という渡米前に読んだ本の内容を思い出した。
 この事実が私の今回のアメリカ視察の第一番目の勉強である。
 食事后、2時間程自由行動。港近くの土産物店などを見物。日本人の観光客の多いのに驚いた。日本の観光地と同様にまがい物の貴金属の店が立ち並んでいるだけで目新しいものはなかった。
 午后も引続いて市内見物。サンフランシスコの町には山が多い。せいぜい金山程度の髙さである。
 山の上から見る町の景色は美しかった。特に住宅地の家家は白色が多く、眞白で新しい家ばかりのように見える。
 通訳の加納さんに聞いたところ
「この辺の人達は4年毎ぐらいに家を買い替える」とのことその度に古い家を売りに出すことになる訳だ。
 そこで古い家の下取りを髙くするために暇をつくってはペンキ塗りをしているのだとのこと。
 どうりで家がみんなきれいだった。途中ゴールデン公園へ寄る。なかに立派な日本庭園があった。
 京都にでもいるような気がした。 3時半頃、ホテルにつく。第1日目なので6時から全体会食。ホテルから歩いて15分程度の中華料理店だった。
 夕食後、3,4人で一寸、町を散歩する。コールガールにしつこく追いかけられる。
 ホテルの部屋でも、この類の女性がドアをノックした。
 12時床についたがなかなか寝つかれない。

ホテル名。ホリディイン    
30階建。